フラメンコの歴史:
偉大なる先人たちに敬意を払う。
フラメンコガイド > フラメンコの歴史:偉大なる先人たちに敬意を払う。
偉大なる先人たちに敬意を払う。
文:ハビエル・プーガ / 訳:山本渉子
JAVIER PUGA
(ハビエル・プーガ) プロフィール 1947年グラナダ生まれ。 子供の頃をモロッコ北部で過ごす。12歳の時、詩の朗読者としての第一歩を踏み出し、グラナダ詩人のレパートリーだけを朗誦する第一人者として知られる。また、フラメンコショーのプロデューサー、技術監督、芸術監督やフランス国営ラジオ放送用のフラメンコとアンダルシア文化の番組キャスターおよびプロデューサーなども務める。モン・デ・マルサン・フラメンコ芸術フェスティバルで芸術監督も務めた。 |
フラメンコはアンダルシアの偉大な芸術として知られており、事実アンダルシアを象徴する芸術である。しかし多くの人がそう思っているにもかかわらず、この音楽的芸術が突然、自然発生的に生まれたとは考えられず、何世紀も何千年にも渡って大衆の文化、および学術的な文化として生存してきたと考えるとしても、今日我々が知っている事柄からすれば、フラメンコは200年以上も経っていない歴史の浅い芸術であるとみなされなければならないのである。
フラメンコの歴史を理解するには、地理的環境に恵まれた南ヨーロッパのあらゆる時代において、多くの民衆と文明とによって影響をうけてきたこの土地の歴史、そして豊かな自然、気候、地域の多様性と美しさを良く知らなければならない。アンダルシアは通過のための土地ではない。アンダルシアと出合った民衆や文明は常にアンダルシアを独自のものとして取り入れ、アンダルシアの中で存続してきた。それにより、アンダルシアは正真正銘の「人種のるつぼ」、また「文化のるつぼ」としてみなすことが出来るのではないだろうか。混乱ではなくアンダルシアに起こった融合と混血、それらが時に合わさって、多くの場合、人々はこの地に根付いたといえる。
大昔からフェニキア王国ではカディスの舞踊家たちの踊りの上手さを称えていた(ローマの詩人や歴史家の中には既にアンダルシアをカンタオーラの地と話している者がいた)。アンダルシアでは数多くの文化基盤、つまり音楽基盤が様々、かつ大量に出入りしており、当然のことながらそれを受け入れ、融合し変化させていったのに加えて、2世紀からこの地に定住していたスペイン系ユダヤ人、セファルディーの音楽的、詩的存在があり、また8世紀にわたるイスラムの存在があったということを強調しなければならない。アンダルシアではこの8世紀の間イスラム世界、特に北アフリカにおける専門家たちが今日まだ誇りにしている音楽的表現の美しい形式を創造し、発展させたのである(アラブ・アンダルシア音楽のこと)。それと平行して中世の時代にはカスティリア語での最初の文学表現は吟遊詩人や盲目の物乞いによって表され、伝えられていく。オリジナルは宗教性を帯びた教養高いものであるが、彼らが歌う流行のロマンセや古謡によって広く民衆の中に広まっていく。
中世末期やルネッサンス初期は、曲も歌詞も、自然に発生したか否かはともかく、すべて口承伝達によるものであったと推測する。この地の土着住民の中でフラメンコが生まれるための礎が定着し、少しずつ、辛い生活の中で感受性の強い心を持った民衆の叫びとして発展していき、最後はフラメンコに生きるという幸運を持つ喜びと情熱のために難産をしたあげく、輝くべきフラメンコの出現をみるのである。
大昔からフェニキア王国ではカディスの舞踊家たちの踊りの上手さを称えていた(ローマの詩人や歴史家の中には既にアンダルシアをカンタオーラの地と話している者がいた)。アンダルシアでは数多くの文化基盤、つそしてイベリア半島の歴史における大きな変化があったこの時期、カトリック両王によって指揮されたキリスト教徒の軍隊の圧力が1492年グラナダのイスラム王国を陥落させ、アンアンダルスによる8世紀に渡る支配を終結させたが、そのあとに続く部族の集団の中にジプシーの民衆の到来があることをここで強調しなければならない。彼らが源であるインドの地から何世紀にも渡って長い巡礼の旅を続け、イベリア半島の北側から入ってきたのは明らかである。また、こちらは信憑性は低いがイスラム帝国の混乱が続く中、たぶんアフリカの北沿いにイベリア半島の南側を通って入ってきた集団もあったであろう。いずれにせよはっきりしているのは、アンダルシアに到着した初めからトゥリアナTRIANA(SEVILLA)からカディス湾の港までグアダルキビル川の河口地帯にジプシーの家族が定住し始めた、ということである。
今は中世から今日までカトリックの国であるスペインにおけるジプシーの民の変化を述べるまでに話を広げる時ではないが、ある時期、ある状況下で正しく受け入れられたこともあるが、権力による激しい迫害を含め、彼らが被った状況は、スペイン国の歴史においても快いものではない。
我々にとってたいへん興味深いことは、グアダルキビルの河口地帯にジプシーの家族が定住したことの重要性について考えてみることである。この家族たちはまるで踊り手が表現する独特な形式のように独自の音楽、音調、リズムの法典を携えていた。この東洋を起源とする特異な文化はアンダルシアに存在していた音と詩の世界と強制的に結び付かねばならなかった。そのことはフラメンコの生成過程に深く痕跡を残している。実際フラメンコがまるで様々な影響を受けた1つのもののように話される時、むしろ私は全く違う2つの地域の話をし、その本質が一方から他方へ移る話をするのである。この二面性は、私のフラメンコの先生の教えを受け継いだものだが、私はこの二面性の話をするのが好きである。一方ではアンダルシアを起源とするフラメンコ(ジプシーではない)。そして、もう一方はアンダルシアのジプシーを起源とするフラメンコ。ドン・アントニオ・マイレーナはそれをアンダルシア・ジプシーのカンテと名付けた。
アントニオ・マイレーナは、アンダルシア・ジプシーのカンテにおける伝統音楽の復興者であった。彼は人生の大部分を、当時失われていたカンテを聞き覚えていて歌えるような人を老人でも若者でも探し出し、まるで民族音楽の中で救出できそうなものを全てを救う医者のようにして過ごした。アントニオの功績により、本来のカンテは失われることなく、純粋なまま今日まで至っている。
この時代に(50~ 70年代)に、ファン・タレガやテレモト、ペラーテ、ファン・エル・レブリーハノ、チョコラーテ、ホセ・メネセ、ウトレラのフェルナンダとベルナルダ、エル・ティオ・ボリーゴなど素晴らしいカンテの歌い手たちが共存したという幸運を述べなければならない。このことからもフラメンコの真の栄光はこの時代に生まれたのだ、ということが考えられる。
何冊も要するであろうフラメンコの足跡を、短いながらも辿ってみたこの考察文を閉じるにあたって、私は世界に日ごと広まっていくフラメンコファンの人たちが現実にフラメンコがどこに行くのか考え、商業ベースやムードという安易な営業権に騙されるままにならないよう願いたいものである。偉大なアーティストたちが、アンダルシアの男、女、ジプシー、ジプシーでない人たちが成し得たことに敬意を払おう。そして記憶に残る彼らの偉大さを低俗な金儲け主義などによって裏切らないようにしようではないか。
フラメンコの歴史を理解するには、地理的環境に恵まれた南ヨーロッパのあらゆる時代において、多くの民衆と文明とによって影響をうけてきたこの土地の歴史、そして豊かな自然、気候、地域の多様性と美しさを良く知らなければならない。アンダルシアは通過のための土地ではない。アンダルシアと出合った民衆や文明は常にアンダルシアを独自のものとして取り入れ、アンダルシアの中で存続してきた。それにより、アンダルシアは正真正銘の「人種のるつぼ」、また「文化のるつぼ」としてみなすことが出来るのではないだろうか。混乱ではなくアンダルシアに起こった融合と混血、それらが時に合わさって、多くの場合、人々はこの地に根付いたといえる。
大昔からフェニキア王国ではカディスの舞踊家たちの踊りの上手さを称えていた(ローマの詩人や歴史家の中には既にアンダルシアをカンタオーラの地と話している者がいた)。アンダルシアでは数多くの文化基盤、つまり音楽基盤が様々、かつ大量に出入りしており、当然のことながらそれを受け入れ、融合し変化させていったのに加えて、2世紀からこの地に定住していたスペイン系ユダヤ人、セファルディーの音楽的、詩的存在があり、また8世紀にわたるイスラムの存在があったということを強調しなければならない。アンダルシアではこの8世紀の間イスラム世界、特に北アフリカにおける専門家たちが今日まだ誇りにしている音楽的表現の美しい形式を創造し、発展させたのである(アラブ・アンダルシア音楽のこと)。それと平行して中世の時代にはカスティリア語での最初の文学表現は吟遊詩人や盲目の物乞いによって表され、伝えられていく。オリジナルは宗教性を帯びた教養高いものであるが、彼らが歌う流行のロマンセや古謡によって広く民衆の中に広まっていく。
中世末期やルネッサンス初期は、曲も歌詞も、自然に発生したか否かはともかく、すべて口承伝達によるものであったと推測する。この地の土着住民の中でフラメンコが生まれるための礎が定着し、少しずつ、辛い生活の中で感受性の強い心を持った民衆の叫びとして発展していき、最後はフラメンコに生きるという幸運を持つ喜びと情熱のために難産をしたあげく、輝くべきフラメンコの出現をみるのである。
大昔からフェニキア王国ではカディスの舞踊家たちの踊りの上手さを称えていた(ローマの詩人や歴史家の中には既にアンダルシアをカンタオーラの地と話している者がいた)。アンダルシアでは数多くの文化基盤、つそしてイベリア半島の歴史における大きな変化があったこの時期、カトリック両王によって指揮されたキリスト教徒の軍隊の圧力が1492年グラナダのイスラム王国を陥落させ、アンアンダルスによる8世紀に渡る支配を終結させたが、そのあとに続く部族の集団の中にジプシーの民衆の到来があることをここで強調しなければならない。彼らが源であるインドの地から何世紀にも渡って長い巡礼の旅を続け、イベリア半島の北側から入ってきたのは明らかである。また、こちらは信憑性は低いがイスラム帝国の混乱が続く中、たぶんアフリカの北沿いにイベリア半島の南側を通って入ってきた集団もあったであろう。いずれにせよはっきりしているのは、アンダルシアに到着した初めからトゥリアナTRIANA(SEVILLA)からカディス湾の港までグアダルキビル川の河口地帯にジプシーの家族が定住し始めた、ということである。
今は中世から今日までカトリックの国であるスペインにおけるジプシーの民の変化を述べるまでに話を広げる時ではないが、ある時期、ある状況下で正しく受け入れられたこともあるが、権力による激しい迫害を含め、彼らが被った状況は、スペイン国の歴史においても快いものではない。
我々にとってたいへん興味深いことは、グアダルキビルの河口地帯にジプシーの家族が定住したことの重要性について考えてみることである。この家族たちはまるで踊り手が表現する独特な形式のように独自の音楽、音調、リズムの法典を携えていた。この東洋を起源とする特異な文化はアンダルシアに存在していた音と詩の世界と強制的に結び付かねばならなかった。そのことはフラメンコの生成過程に深く痕跡を残している。実際フラメンコがまるで様々な影響を受けた1つのもののように話される時、むしろ私は全く違う2つの地域の話をし、その本質が一方から他方へ移る話をするのである。この二面性は、私のフラメンコの先生の教えを受け継いだものだが、私はこの二面性の話をするのが好きである。一方ではアンダルシアを起源とするフラメンコ(ジプシーではない)。そして、もう一方はアンダルシアのジプシーを起源とするフラメンコ。ドン・アントニオ・マイレーナはそれをアンダルシア・ジプシーのカンテと名付けた。
1. 難解な段階(1780~ 1840)
最も偉大な代表的アーティストは、フランシスコ・オルテガ・バルガスである。エル・フィージョの名でより知られているフラメンコのプロの草分け的存在で、「当時活躍した全てのアーティストの先生」とみなされている。その時代フラメンコは、昔から家族や親しいものと共に踊っていたカタコンベから出てきて、居酒屋や売春宿、ダンスホール、祭りの会場などで踊られるようになった。エル・フィージョと彼の弟子たちによってセギリージャの歌が出来上がり、ロマンセやカーニャスの歌、古いソレアレスやトナースも広まっていった。2. カフェ・カンタンテの段階(1840~ 1890)
この時代に認められたマエストロは、トマス・ニトリとシルベリオ・フランコネッティである。シルベリオの仕事はフラメンコの歴史と認識を完成させたことである。難解な芸術を敬意を払って取り上げることにより、普及させることができた。もちろんその芸術は尊敬に値するものであった。シルベリオは今日まで知られている様式を再編成してマラガの歌やセギリージャ、セラーナス、カーニャス、ポロス、ソレアレスなどいくつかの様式を広めた。3. 黄金の段階(1890~ 1920)
ここでの独自の光を放つ文句なしの伝説のマエストロは、アントニオ・チャコンとマヌエル・トーレである。チャコンは、先達の音楽の知識全てを同一化し、広めた上、中央地のグラナダかマラガから地元のヘレスまで支配していた多くの様式に世界的な広がりを与えたことで「フラメンコの最初の革命家」と呼ばれている。「偉大な非ジプシー」とその時代のジプシーのカンタオールたちは感服して彼をそう名付けることとなった。それはあらゆる社会環境において彼が獲得した尊敬の念と理解を物語るものである。鉱夫の歌、マラゲーニャの歌の取り決めにや、例えばカンティーナス集団の歌を、聴くための緩やかなカンテに変えるなど、フラメンコの統合を巧みに行った。マヌエル・トーレは当時の一番秀でたジプシーのカンタオールであった。類稀な才能に恵まれた彼は、カンテの最も激しく深い極みを伝えた。歓呼する感動の言葉で、ドュエンデを鎮めることなく、フラメンコの演奏に沿って天才的妙技が生じる、正にその時ドュエンデを具現化するのである。4. フラメンコオペラの段階(1920~ 1957)
カフェ・カンタンテの衰退期を通じてアントニオ・チャコンとマヌエル・トーレの2つの傾向が共存するが、商業的なハッキリとした批評の影響下で「フラメンコ・オペラ」の概念の道が開かれた。ぺぺ・マルチェーナと彼の「マチェリスモ」の傾向によって到達した人気の大きな広がりは、カンテの要素のバロック叙情的様式の影響を受けた。しかしながら、マヌエル・バジェーホもしくはマノロ・カラコルのように、この時代を代表する人物を認めなければならない。彼らは浅く短命なものと奥深いものとの難しい二面性をうまく取り扱った。特に最高のニーニャ・デ・ロス・ペイネスとトーマス・パボンやファン・モハマの決して十分に知られることのなかった偉大さなど。結局、時代は多かれ少なかれ、本来の流れに戻るのである。物事に真の価値を与え、ジグソーパズルの一片、一片、をその場所に当てはめていくことが出来るような天才が現れた時に。5. フラメンコ祭の段階(1957~ 現在)
アントニオ・マイレーナが偉大な時の人であった。フラメンコをあらゆる国境を越え、世界的芸術の名声に到達させ、今日展開されている輝かしい状況にもたらした、その礎となる日が3日あったことを記しておかなければならない。コルドバ国内コンクール(1956)、第1回ウトレラ・フラメンコ・フェスティバル(1957)、そして第1回カンテ・フラメンコ選集の出版(1958)である。こうしてこの芸術は名声を元に回復し、余分で重要でないものを取り除き始めた。アントニオ・マイレーナは、アンダルシア・ジプシーのカンテにおける伝統音楽の復興者であった。彼は人生の大部分を、当時失われていたカンテを聞き覚えていて歌えるような人を老人でも若者でも探し出し、まるで民族音楽の中で救出できそうなものを全てを救う医者のようにして過ごした。アントニオの功績により、本来のカンテは失われることなく、純粋なまま今日まで至っている。
この時代に(50~ 70年代)に、ファン・タレガやテレモト、ペラーテ、ファン・エル・レブリーハノ、チョコラーテ、ホセ・メネセ、ウトレラのフェルナンダとベルナルダ、エル・ティオ・ボリーゴなど素晴らしいカンテの歌い手たちが共存したという幸運を述べなければならない。このことからもフラメンコの真の栄光はこの時代に生まれたのだ、ということが考えられる。
何冊も要するであろうフラメンコの足跡を、短いながらも辿ってみたこの考察文を閉じるにあたって、私は世界に日ごと広まっていくフラメンコファンの人たちが現実にフラメンコがどこに行くのか考え、商業ベースやムードという安易な営業権に騙されるままにならないよう願いたいものである。偉大なアーティストたちが、アンダルシアの男、女、ジプシー、ジプシーでない人たちが成し得たことに敬意を払おう。そして記憶に残る彼らの偉大さを低俗な金儲け主義などによって裏切らないようにしようではないか。