フラメンコの歴史:
カンテ史を築いたアルティスタたち。

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カンテ史を築いたアルティスタたち。

文:ホセ・ミゲル・セロ

JOSE MIGUEL CERRO 
(ホセ・ミゲル・セロ)

プロフィール

1951年カディス生まれ。幼少時から唄を始め、バルセロナに移ってから本格的に歌手デビュー。マルハ・ガリード舞踊団に所属後、バルセロナの有名なタブラオ「ロス・タラントス」「エル・コルドベス」「カルメン」などに出演し、好評を得る。その後、ラ・チャナやクリスティーナ・オヨスの舞踊団に参加。またフォスフォリート、ホセ・メルセ、エル・ペレ、ファニート・バルデラマらのカンタオール達と共演した。99年以来、エディン・ブルゴの国際フェスティバルに自らのグループを結成して参加。カタルーニャ州においてはカンタオールとしてだけでなく、数少ない作詞家として貴重な存在である。
フラメンコの歴史は、19世紀半ば以前のものは、実在の人物によって集められた具体的なデータがなかった。この時期までのデータは全て、推論、思索、直感に概して論理的な理論にすぎない。

スペインで知られる古い文明として、アンダルシアで形成された紀元前6~ 5世紀のタルセソス王朝がある。その後、ギリシア人、フェニキア人、カタルゴ人、ローマ人、ビサンチン人、ヴァンタル人、アラーノ族、西ゴート族、イスラム教徒が侵入した。

ジプシーやユダヤ民族は、アンダルシアに集まった共同体であった。これらの村々では、各々の文化がアンダルシア土着民と混ざり合い、そしてそれぞれの村同士もが同じような比率で混ざり合った。この人種のるつぼから、次第にカンテ・フラメンコが生まれていったのであろう。

このはっきりとしない先史時代の時期が過ぎ、19世紀半ば頃、フラメンコに具体的なデータが現れる。作家のセラフィン・エステバネス・カルデロンが1847年に出版した本「エスセナス・アンダルーサス」の中で、フラメンコ夜会について記したのだ。この時期まで人々は、個人的な集会や宿、露店、農場などで歌っていた。

エル・プラネタ
(肖像画)
カンテの初期から黄金期へ

カフェ・カンテの登場

19世紀末までに集められる資料の大半は、アントニオ・マチャードやアルバレスの「デモフィロ」(1846~ 1893)に求められる。ヘレスのカンタオール、ファネロやシルベリオ・フランコネッティ(カンタオール、偉大な改革者、カンテの主唱者)に指導を受けた民族学者は、当時の900以上の俗謡や最も傑出したアーティストについてのコメントやニュースを収集した。彼の重要な作品は「コレクシオン・デ・カンテス・フラメンコス・レコヒドス・イ・アノタドス」(1881)である。

「デモフィロ」の中に出てくる歴史上最初のカンタオールは、ティオ・ルイス・デ・ラ・フリアナ(1760年頃~ 1800年初頭)である。彼については、水売り人でヘレス出身ということしか分かっていない。

身体的描写や何をどこで、どのように歌ったか、つまり、あらゆる詳細を記された最初のカンタオールは、エル・プラネタ(1785年頃~ 1860年頃)である。彼はエステバネス・カルデロンが「エスセナス・アンダルーサス」の中で記した主要なアーティストである。その当時の全てのカンテ、つまりロマンセ、カーニャ、トナ、セラーナ、ポロ、ロンデーニャ、シギリージャや現存しないその他のカンテを歌った。

エル・プラネタと並びエル・フィージョ(1820~ 1878)の名も挙げられる。彼と共にカンテは今日私たちに知られるような形に形成され始めた。
シルベリオ・フランコネッティ(1830~ 1889)は、これら初期のカンテに決定的な足跡を残した人物である。彼は集会や食堂、農場でのカンテを吸収し、それを特定の場所での興行に変えたり、舞台に加えたりした。これらの場所はカフェ・カンタンテ(19世紀のタブラオ)と呼ばれた。彼の感じ方、力のある声、演じ方、師であるエル・フィージョから受け継いだものと共に、カンテの新時代が始まった。最も生産的で広がりのある時代、黄金時代である。
シルベリオ・フランコネッティ
トマス・エル・ニトリ
カンテの形式強化の時代

舞台芸術としての発展

19世紀半ばから20世紀初頭までにおいて、今日私たちが知っているカンテの全ての形式が強化された。

(写真)トマス・“エル・ニトリ” トマス・“エル・ニトリ”とりわけそれに貢献したのは、パキリ “エル・グアンテ”、 フラスコ “エル・コロラオ”、 クーロ・デュルセ、 エンリケ ”エル・メジーソ”、 パコ・ラ・ルス、 “エル・ニトリ”、ロホ”エル・アルパルカテロ”、マヌエル・トーレ、ホアキン・デ・ラ・パウラフラメンコ興行のコンセプトにおいてシルベリオの後継者であるグラン・ビルトゥオリ、そしてカンテ・リブレやその周辺のカンテの創始者であるドン・アントニオ・チャコン(1869~ 1929)である。

ドン・アントニオ・チャコンは、カンテをカフェのものから舞台のものへと高めた。チャコンと共に1910~ 1956年頃は1つの時代が到来した、といえる。この時代の初期には、カンテはサイネタやサルスエラ(スペインの国民的オペラ)、アンダルシアの呼吸や雰囲気のある、もしくはフラメンコのコメディなど、他の興行の一部として、またはジプシーの趣味的要素として形成されていった。
1922年、作曲家のマヌエル・デ・ファリャ、詩人のガルシア・ロルカによるカンテ・ホンドの初のコンクールがグラナダで開催された。人々はこのコンクールで、フラメンコの衰退から救うことを目指した。この時期、カンテは初期の形式や他の民俗音楽と混合した古典形式から離れ、フラメンコの真の価値やアイデンティティが失われていると考えられていた。コンクールは期待された効果はもたらさなかったが、この影響でアンダルシアやマドリッドで他のコンクールが開かれるようになり、その時代のスタイルを持つカンタオールを更に見出すことになった。

既にその頃、セビージャやヘレス、マドリッドで1920年に17歳の少年ーこの時代から1950年代までの主な代表者であるーが優勝していた。舞台と闘牛場の王、ペペ・マルチェーナ(1903~ 1976)である。彼は、年長の聴衆の耳にもカンテが到達し易いように、唱法を和らげた。この時代の他の偉大なカンタオールは、オペラ・フラメンカで知られており、マヌエル・バジェーホ、セペーロ、エスカセナ、コホ・デ・マラガなどがいる。
マヌエル・トーレ
アントニオ・チャコン
民俗音楽としての、また1922年グラナダのコンクールで試された、保護されるべき唯一の音楽としてのカンテの意識への呼びかけは、次の5つの事柄によって1950年代に実現されたようだ。 (1)1954年、初の「カンテ・フラメンコ選集」が3枚のレコードに編集される。 (2)同年、マドリッドに「タブラオ・サンブラ」という19世紀のカフェ・カンタンテに類似したタブラオ・フラメンコが設立される。 (3)1955年、アンセルモ・ゴンザレス・クリメントの「フラメンコ学」というカンテの価値を深く認識した本が出される。 (4)1956年、初のコルドバ・フラメンコ芸術国立コンクールが開催される。 (5)1958年、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラでフラメンコ学の教壇が設立される。
カマロン・デ・ラ・イスラ (左) とパコ・デルシア
古典的カンテの復興期

カマロン登場による新時代へ

この頃からフラメンコをさらに純粋なものにしようとする目的で、国の公的団体によるフェスティバルや、愛好家によるペーニャが始まった。

この古典的カンテの回復期を代表するカンタオールは、アントニオ・マイレーナ(1909~ 1983)である。彼は、やや忘れ去られたカンテの回復者であり、その他消えてしまったカンテの復元者である。マイレーナは議論の余地のないマエストロであり、カンテの偉大な識人で、純粋な学術的カンテに基づく新しい学派の設立者である。

1950年、以前に増して、カンテ・フラメンコを通じ、他の社会階層や音楽ジャンルの人々までが興味を持つに至ったカンタオールのカマロン・デ・ラ・イスラ(1950~ 1992)が生まれた。彼の革新的で純粋な流れは、彼の死後も継続し、彼の世代やその次の世代に受け継がれている。ギタリストのパコ・デ・ルシアとのレコーディングを始めて10年後の1979年には「ラ・レジェンダ・デル・ティエンポ」という、フラメンコ界においては画期的な出来事となったレコードを発表している。

彼はガルシア・ロルカの作品を歌ったり、フュージョンロックとの共演、また同時代やその後のカンタオールのフラメンコ制作に役立つ、高水準の創造性をもつ編曲などを行った。カマロンの存在はおそらく、フラメンコ・カンテ史を代表する声であり、彼の聴覚などの感覚と同様、その洗練された顔も長い歴史に留めるものである。今日、カンテは良い形にある。世代は天才サン・フェルナンド(カマロン)の足跡を、形式と根本、そして想像への欲において継承している。

アントニオ・マイレーナの世界は、明確で図式的ではあるが閉じられた世界であった。しかし、カマロンがカンテ界に生まれ、カンテが新しい形として学ばれる道を開いた。

 現在、カンテの世界は広がり、さらに増大している。今の時代を生きる私たちは果たして今後また、カンテに迷うのだろうか?それは、やがて時が教えてくれるだろう。